昭和46年01月24日 特別特別奉修員



 仰せられます、それがひとつの教風ともなっておる訳ですね。形の行よりも心の行をせよと言われています。形の行はせんでもよいと言う事じゃありません。形の行もやっぱさせて貰わなきゃなりません。同時にそれに心行が伴わなければならないと言う訳ですよね。まあ例えて言うと形の上で、言葉で人を責めると言った様な、あんたばっかりはち言うごたる言い方をする時には、こりゃもう人を責めておる訳ですけどね。
 だから形で修行をするという事も大事だけれども。形で責めてはならないと言う事ですね。ほんなら心で責めて良いかと言うとそうでもない。只尚更そこからが心行に入って行くのであってね。所が私共の場合は、心で責めたり心で争ったりしている。言葉じゃいかにも信心しとるからと思うて、こうね穏やかにしとりますけども、心でこの人ばかりはと思いよる時には、既に心で責めよる時ですからね。
 だからそれを責めんで済むおかげをいっちょ、こりゃもう大変やっぱ難しい事だと。あの甘木の初代、ああいう大徳の先生がもうご晩年の頃ですかね。あのある元旦のご挨拶の時に、今年こそは心で人を責めない。所謂心に不足を言わないおかげをどうでも頂きたいと願われたと言うのですから。どのくらい難しいかと言う事が分りますね。けれどもね、問題は本気でそれに取り組むと言う事ですよ。取り組む事が尊い事なんです。
 ところが言うておっても取り組まないですね。これは私も、例えば御祈念なら御祈念させて頂く時にね、もう本当に思いを込めて御祈念させて貰うと思うただけで違うですよ。ただうかつに拍手打って御祈念しよると、はあ今の御祈念は本当思いを込めていなかった事に、ビックリするごと気がつくです。だから御祈念にかかる前に心がける。思いを込めて、しかも一生懸命に願うぞ、一生懸命御祈念するぞこう思うただけで違う。
 ですから問題は、そこにそれだけのゆとりがね、どうしても必要なんです。ですからね、ひとつ善と悪とこうね、一日の内に、良い事をした時には白丸、はぁ心にひっかっかる様な事をした時には黒丸と言うことなら、お互いのばあいは、もし付けたら、もう黒丸ばっかりじゃなかろうかと思うぐらい、心での場合なんかはですね。形の上では、まあまあ出来てるにいたしましてもね。
 けども、その心の場合でもです、今日こそは、本気で心行と思うてですね、例えば、心で責めまい、心で争うまい、と言うようなですね、ゆとりを持って取り組ませて頂くとですね、争わんで済む、責めんで済むおかげが受けられると思うですね。そう言う稽古をする事が、私は心行だと思う。どうでも、一つ、今日は、そういうね、形の上で責めたり、不足を言ったりと言う事は、勿論ですけども。心の上でね、不足を言うまい、まあ心で責めまいと言う事をですね。
 本気で取り組むだけのゆとりをね、一つ、作らにゃいけません。、ですから私共は、ゆとりを持たんとですね、あぁもうしもたと言う事になる。はぁまた失敗したなという事になる。だからゆとりを持っとくとですね、御祈念前に、例えば、本気で御祈念させて貰おう、芯から、折角信心させて貰うなら、一生懸命御祈念させて貰おう、思うただけで御祈念がね、出きるようなもんです。ですからそのゆとりをね、一つ頂きたいと思うですね。   どうぞ。